網走で撮影が行なわれた作品のロケ風景やロケ地を紹介します。
撮影や市内巡りにぜひご活用ください。

  • 子ぎつねヘレン

    製作:「子ぎつねヘレン」フィルムパートナーズ
    公開日:2006.3.18
    監督:河野圭太
    撮影場所:呼人、明治、能取岬、旧丸万小、旧能取小、感動の径 他
    公式サイト:http://www.helen-movie.jp/

    Episode!

  • 刑務所の中

    公開日:2002.12.07
    原作:花輪和一
    監督:崔洋一
    撮影場所:博物館網走監獄

    Episode!

  • 網走番外地

    製作:東映(東京撮影所)
    公開日:1965.4.18
    監督・脚色:石井輝男

    Episode!

  • 男はつらいよ「寅次郎わすれな草」

    製作:松竹(大船撮影所)
    公開日:1973.8.4
    監督:山田洋次
    脚本:山田洋次、宮崎晃、朝間義隆
    撮影場所:網走橋、川筋地区

    Episode!

  • 幸福の黄色いハンカチ

    製作:松竹
    公開日:1977.10.1
    監督:山田洋次
    脚本:山田洋次、朝間義隆
    撮影場所:網走駅前、モヨロ海岸

    Episode!

他にも網走市内での映画、TVドラマの撮影も
数多く行われています

公開日 作品名 製作/配給 主な出演者 撮影場所
2020.12

TV

無頼

チッチオフィルム 松本利夫 網走刑務所
2020.3

TV

カンムリ

RCCテレビ 横山雄二 網走湖、博物館網走監獄、道の駅
2018.3

映画

北の桜守

東映 吉永小百合 能取岬、大曲湖畔園地、藻琴地区
2018.1

映画

風の色

エレファントハウス、
アジアピクチャーズエンタテインメント、
カルチャヴィル
古川雄輝 能取岬、流氷観光砕氷線おーろら、JR石北本線
2017.12

映画

トリノコシティ

アイリンク(株) 山崎丹奈、
玉城裕規、
高崎翔太、
太田理恵
能取岬、博物館網走監獄、呼人探鳥遊歩道、網走総合体育館前白樺並木、北浜駅
2017.4

TV

破獄

TVh 北野 武 博物館網走監獄、網走刑務所
2017.2

TV

TABIFUKU

TBS 中田みのり 能取岬、網走湖、流氷館、流氷観光砕氷船おーろら
2014.2

映画

抱きしめたい-真実の物語-

東宝 北川景子、
錦戸 亮
藻琴駅、網走総合体育館、エコーセンター
2013.1

映画

キタキツネ-35周年リニューアル版-

アスミック・エース 西田敏行 博物館網走監獄
2011.4

映画

大地の詩-留岡幸助物語-

現代プロダクション 村上弘明、
工藤夕貴
博物館網走監獄
2010.12

映画

非誠勿擾「狙った恋の落とし方」

華誼兄弟影業投資有限公司 葛 優 能取岬、北浜駅、字中園
2010.6

映画

ケンタとジュンとカヨちゃんの国

リトルモア 松田翔太、
高良健吾、
安藤サクラ
能取岬、呼人浦キャンプ場、二ツ岩、鱒浦地区
2009.8

映画

南極料理人

東京テアトル 堺 雅人 能取岬、網走スポーツトレーニングフィールド
2007.8

映画

「遠くの空へ消えた」

ギャガ・コミュニケーションズ 神木隆之介 旧丸万小、能取岬近辺
2007.6

その他

TVドラマ「牛に願いを」トヨタ自動車「ラクティス」

関西テレビ系 玉山鉄二、
相武紗季
能取岬
2006.3

映画

「子ぎつねヘレン」

松竹 大沢たかお、
松雪泰子
呼人、明治、能取岬、旧丸万小、旧能取小、感動の径 他
2005.4

TV

「西村京太郎 トラベルミステリー44
特急『スーパー北斗1号』殺人事件」

テレビ朝日系 高橋英樹、
森本レオ
北浜駅、北浜駅周辺海岸
2004.11

TV

「西村京太郎 トラベルミステリー43
北帰行殺人事件」

テレビ朝日系 高橋英樹、
浅野ゆう子、
愛川欽也
能取岬、卯原内サンゴ草群落地、網走駅他
2003.6

映画

「スパイ・ゾルゲ」

東宝 イアン・グレン、
小雪
博物館網走監獄
2003.4

TV

「みにくいアヒルの子 涙の再会スペシャル」

CX系 岸谷五朗、
常盤貴子
涛沸湖、北浜駅、白鳥台小学校
2003.4

TV

「西村京太郎スペシャル~日本一周旅号殺人事件」

TX系 小林稔侍、
国生さゆり
能取岬、ホテルサンパーク、湖畔荘他
2002.12

映画

「刑務所の中」

ザナドゥー 山崎努 博物館網走監獄
2001.1

映画

「風花」

シネカノン 小泉今日子、
浅野忠信
鱒浦、国道244号沿い
1997.8

TV

「法医・歯科学の女2」

ANB系 中村あずさ、
船越英一郎
市内各所
1994.7

TV

「徳田刑事シリーズ2 追跡のオホーツク」

TBS系 田村高廣、
生田智子
網走湖周辺
1987

TV

「地球発22時」

TBS系 中村敦夫 博物館網走監獄
1985

TV

「誇りの報酬」

NTV系 中村雅俊、
根津甚八
博物館網走監獄
1985.4

TV

「破獄」

NHK 緒形拳、
津川雅彦
博物館網走監獄
1983.12

映画

「エル・オー・ヴィ・愛・N・G」

東宝 田原俊彦 市内
1983.6

映画

「きつね」

松竹 岡林信康、
高橋香織
1979

TV

「北帰行」

NHK 加藤登紀子 網走駅前
1977.1

映画

「幸福の黄色いハンカチ」

松竹 高倉健、
倍賞千恵子
網走駅前、モヨロ海岸
1973.8

映画

「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」

松竹 渥美清、
浅丘ルリ子
網走橋、川筋地区
1965.4

映画

「網走番外地」

東映 高倉健、
南原宏治
1962.4

映画

「大氷原」

日活 宍戸錠 赤灯台付近
1961.2

映画

「手錠にかけた恋」

大映 菅原謙二、
三木裕子
1960.1

映画

「地の涯に生きるもの」

東宝 森繁久弥、
草笛光子
網走沖
1959.2

映画

「網走番外地」

日活 小高雄二、
浅丘ルリ子
1958.1

映画

「新日本珍道中(東日本の巻)」

新東宝 高島忠雄、
由利徹
天都山、原生花園
1958.7

映画

「無鉄砲一代」

松竹 三橋達也、
杉田弘子
1953.11

映画

「北海の虎」

東宝 藤田進、
花柳小菊
網走港埠頭、網走神社他
1951.1

映画

「愛と憎しみの彼方へ」

東宝 三船敏郎、
志村喬
網走刑務所

網走にまつわる作品

文学

多くの文学者、作家が網走を訪れています

  • 古代人とオホーツク

    「街道をゆく 38 オホーツク街道」 司馬遼太郎(1993年 朝日新聞社)

    司馬遼太郎は、1971年から1996年まで週刊朝日に連載されたライフワークとも言うべき「街道をゆく」シリーズの中で、オホーツクを訪れています。『街道をゆく オホーツク街道』は、流氷の流れ着く北海道・オホーツク海沿岸で発見された多くの遺跡を巡り、北の狩猟民族の姿を追ったものです。

    オホーツクは古代流氷と共にアザラシやトドを追ってやってきた、モヨロ人と呼ばれる北方狩猟民族が住み付いた土地。司馬氏は網走で発見された遺跡・モヨロ貝塚に始まり、北方少数民族の資料館ジャッカ・ドフニ、北方民族博物館などを訪れ、北の民族の源流と行末に想いを馳せます。
    この連載では二度来網されており、秋にはサンゴ草、冬は氷の張った網走湖の描写が出てきます。

    (卯原内サンゴ草群落地にて)
    「愉快なのは、草よりも人だった。
    近在のひとびとにとって、草が赤くなると祭のような気分になるのか、ちょうど春の野遊びのようにあちこちで弁当をひろげている。

    秋を送る祭である。屋台もたくさん出ていた‥(中略)‥たべもののゆたかさこそ、オホーツク沿岸の古代的風景を想像するきめ手に相違ない」

    オホーツクは、農産物も海産物も豊富な「食の大地」。オホーツク海の冬の風物詩・流氷の下では、たくさんのプランクトンが育ち、豊かな漁場を作り出してくれます。また、広大な畑作地帯でもあり、夏は青々とした畑がどこまでも連なります。そういった好条件がオホーツク独自の文化を育んでいったのです。
    司馬氏の滞在したホテルは網走湖がよく見渡せる湖畔の丘の上にありました。

    (「網走は、地形がおもしろい。‥(中略)
    湖は、網走湖、能取湖、藻琴湖、などがある。私のホテルからみえる水景が網走湖で、島影も水の青さも、どこか重い。
    網走湖は海跡湖だという。まわりの山々はひくく、湖に細くながながとつき出た長洲があり、水景に緑をあふれさせつつも、どこか、死後の景色をおもわせるほどに寂(しず)かである」

  • 網走の素顔

    「現代紀行文學全集 第一卷 北日本篇」

    (志賀直哉・佐藤春夫・川端康成監修 1958年 修道社)

    「オホーツク海と日高の海」 草野心平(発表誌:1955年 『旅』)
    「網走は矢張り荒涼としていた。けれども豫想していた程荒涼としてはいなかった。私慾を言えばもっと荒涼とした網走を見たかったのだけれども、そんなことを言ってはしかられるだろう。第一そうした概念に溺れることが先ず間違っているのだ」

    あの有名な高倉健主演の映画『網走番外地』が公開されたのは昭和40年、いまや映画を見たことのない人でも網走=刑務所のイメージはどこかで植えつけられ、必然荒涼とした寂しく暗い最果ての地を想像されることでしょう。
    『番外地』以前にもそういったイメージはあったようで、詩人草野心平は旅行記でこのように述べています。遠く北海道の海沿いの町であり、流氷が辿り着くとあっては、人も住まないような厳寒の地の果てを想像していたのでしょう。

    「はじめて見た層雲峡から阿寒への道」 倉橋由美子(発表誌:1965年 『旅』))
    「網走はあかるい町でした。それは、北方の海、オホーツク海の意外なあかるさのためでしょうか。午後の逆光にきらめく湖、ミズバショウの点在する湖面、エゾマツ、トドマツの防雪林をとおして光る水、緑を映して湖にそそぐ河口‥‥網走の周辺にはいくつかの湖があって、雪と氷が去ったあとの、この水の多い風景は、まことにあかるくおだやかです」

    また、作家田宮虎彦は網走の印象をこのように記しています。

    「オホーツク海岸をゆく」 田宮虎彦(1970年)
    「網走の町は淋しいさいはての町どころか、むしろ活気のある漁業の町であった。夕方、町に帰りついてたずねていった港の、魚市場の岸壁には帰港した漁船から、北の海の魚であるニシンやスケソウダラが荷揚げされていた。マダラやエビやカレイなどがその中にまじっている。漁船は、終日、つぎつぎに港に帰って来ているのであろう。

    ――朝の網走大橋は、早い朝の日差の中を、そんなトラックや荷馬車、満員のバス、急ぎ足の通学生や通勤の人たちが忙しそうに行きかっていく。私は、小一時間、そんな大橋を見下ろしていた。若い女性は東京とかわらないミニを着ている。そこにはさいはての町などという淋しさ、わびしさはひとかけらも感じられない明るさが溢れていた」

    マイナスのイメージは、特に雪のない季節には、網走の地に降り立ったとたんにかき消されます。
    まぶしく光る網走湖、風に揺れる新緑、どこまでもなだらかに波うち広がる美しい田園風景は、網走にとって特別なものではありません。件の網走刑務所でさえ、東洋一の農園刑務所であり、広大な農地を所有しているのです。
    港へ行けばオホーツクブルーの海にたくさんの漁船があふれ、水平線の遥か向こうに連なる知床の山々は目を瞠るような雄大さ、旅人はイメージが単なるイメージであったことに気付くのです。

    冬には雪が降り積もり、海岸は押し寄せる流氷で真っ白になりますが、いまや流氷は網走の観光の目玉であり、国内はもちろん海外からも観光客がツアーを組みやってきます。イベントなどもあちこちで開催され、その賑わいも手伝って、ある意味冬は網走が最も活気づく季節といえます。

    また市街地では、人口の差はあれど、他の町と変わらない日常風景を繰り返しています。
    もちろん網走の歴史には、海を渡ってきたといわれる北方民族や、開拓時代の入植者、道路を切り開き犠牲になった受刑者たちがいることを忘れてはなりません。
    けれどもそういった歴史の層がひとつひとつ積み重ねられた上に成り立っている網走の人々の生活は、意外なほど明るくのんびりとしています。厳しい自然環境と向き合っての暮らしは、かつての苦しさ、厳しさを強さに変えてしまうようなおおらかな柔軟性を生み出していったのでしょう。

  • オホーツクブルー

    「現代紀行文學全集 第一卷 詩歌篇」

    (志賀直哉・佐藤春夫・川端康成監修 1958年 修道社)収録作品より

    あきあぢの網こそ見ゆれ網走の眞黑き海の沖つ邉の波に若山牧水

    (秋味とて鮭のとるるさかりなり、北見網走港にて)
    (「黑松」旅中即興 1926年10月10日 講演のため来網)

    「曇り日のオホーツク海」 北原白秋(発表誌:1929年 『アルス』)
    光なし、燻し空には日の在處、ただ明るのみ。

    かがやかず、秀に明るのみ、オホーツクの黑きさざなみ。(後略)

    「網走まで」 三浦哲郎(発表誌:1965年 『マダム』)
    「網走港では、港の入口の帽子岩まで弓なりに伸びている防波堤の上から、はじめてオホーツク海をみた。曇っていたせいか、海の色がダークグレイで、思いがけなく凪いでいた。」

    「はじめて見た層雲峡から阿寒への道」 倉橋由美子(発表誌:1965年 『旅』)
    「すぐ足元にはオホーツク海がせまっていました。冬になると天気予報でよく耳にするこの海は、仮死状態の生きもののように静かでした。うちよせる波の白い歯列ひとつみえない、ふしぎな海です。北方の暗鬱な海というイメージはまちがっていました。水はあくまで澄んであかるく、わたしの知っている南方の海のくろぐろとうねり輝く精悍な獣のような潮の動きがありません。」

    網走という土地が穏やかに感じられるのは、海の静かさのせいでもあります。
    夏の浜辺にゆるやかに打ち寄せ、冬は流氷とともに静寂に閉ざされるオホーツク海。
    オホーツク海には、太平洋のような開けっぴろげな明るさや、高揚感はありません。また日本海のような人を寄せ付けない厳しさもありません。晴れた日は蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」という句を連想させるような穏やかでのんびりとした表情を見せ、また曇りの日は空の暗さを受けてどんよりとよどんだ湖沼のようにも映ります。

    この海の代名詞は「オホーツクブルー」。「オホーツクブルー」は空の色だという説もありますが、やはり網走では海の色をあらわす言葉です。
    若山牧水や北原白秋は「黒」、三浦哲郎は「ダークグレイ」と表現したオホーツク海。灰味を帯びた紺青の海に立つさざ波は黒に近い色。季節や見る場所、もちろん見る人によってこの色も微妙に変化します。
    オホーツク海は作家、俳人、画家...さまざまなクリエイターたちを今も昔も変わらず魅了し続けています。

  • 網走人と流氷

    「ドキュメント 流氷くる!」 菊地慶一

    (2000年 共同文化社)

    菊地慶一は網走在住の文筆家で、オホーツクの自然や歴史について執筆活動を続けている人物です。長い間独自に流氷観測を行い、流氷に関する著作も数多くあります。「ドキュメント 流氷くる!」は、1999年の流氷の、一進一退を克明に綴った作品です。

    かつては海を封じ込めてしまい、漁業に障害をきたす邪魔者と思われていた流氷が、多くのプランクトンを含み海を豊かにするものだと分かり、またその後オホーツクの冬の観光の目玉となってからは、流氷はどちらかといえば歓迎される存在となりました。

    作品の中には、記録と併せてこの流氷に様々な形で関わる多くの人々が登場します。気象台、海上保安部、流氷館、アイスクライマー、カメラマン、漁師、町の人々、子供達‥
    すべての人に感じられるのは、氷と共に生きるという姿勢です。冬の厳しさを当たり前のように受け止め、それに合わせて暮らしていく。季節の移り変わりを感じ、自然への畏敬の念が命の根底に流れている。それがオホーツク人なのでしょうか。

    オホーツクでは流氷が来るのは毎年のこと、と何気ない顔をしながらも、やはり初日や接岸を気にとめている人が多いのが事実です。刻々と変わる氷の表情も、一夜にして消えたり現れたりする驚きも、その地に暮らしていればこそ、話や写真だけではなく実際に目の当たりにして少なからず感動を覚えた経験があるのです。

    「街へ出かけて知人に出会うと『おめでとうございます』と、声をかけられてびっくりした。流氷接岸を待ちわびる私に、やさしい気持ちを寄せてくれている。店の人が「とうとうきましたね」と、言ってくれる。街中が、とは大げさだがたくさんの人たちが、ついに来ましたねという言葉をかわし合っている。寒さにふるえながらも、流氷の季節を受け止める網走人がいる」

    地元の人々の流氷への想いは花火のようなイベント的な盛り上がりというよりも、炭火のようなじわりと熱いものが感じられます。
    流氷は、観光客よりもむしろオホーツクに住む人々にとっての方が、魅力あるものなのかもしれません。

  • 網走の魅力

    「オホーツク老人」 菊地慶一

    (1960年 新潮社)

    「漂流」

    (1960年) 他

    戸川幸夫

    網走と最も関わりの深かった作家に、戸川幸夫が挙げられます。彼は「オホーツク老人」執筆のために網走を訪れた折、オホーツクの自然に魅力を感じ、以来年に数度は足を運んでいたと言います。

    「私が最初に網走を訪ねたのは三十四年の九月だった。知床半島のルポをするためだったが、当時は知床半島のことは全く不明だったので、網走に行けば何とか状況が判るだろうとおおざっぱな推量で訪ねたのだが、その網走市の観光課の人でさえ知床半島に行ったことがないというありさまで、谷村観光係長にお願いして知床半島に行ったことのある市民四人をやっと探して貰い、事情を聞いた次第だった。その時は知床半島のウトロまで行くのに営林署のジープに便乗し、営林署の宿舎に泊めてもらい、鮭の集荷船に乗って突端の番屋に行き、そこから先は番屋づたいに転々と移動して半島を旅した」 (「氷海の嵐」 凍原社『北の話』)

    知床は今や道東観光の代名詞なので、想像がつき難いかもしれませんが、当時は観光する人もほとんどなく、交通手段も十分でなかった知床へ行くには、網走が拠点となっていました。そのため網走の人々の協力は、戸川幸夫にとって大きな役割を果たすこととなりました。
    こうして書き上げられた「オホーツク老人」は、その後森繁久弥主演の「地の涯に生きるもの」として映画化され、このとき生まれた歌「知床旅情」は空前の大ヒットとなり、知床ブームが巻き起こりました。
    彼がこの作品を書かなければ、今のように世間に知床が知られることはなかったとも言えます。

    戸川幸夫は網走の魅力について、このように語っています。

    「オホーツクには、なんとも言えないもの悲しさがある。つまり、日本人の体質にぴったり合う詩情があるんです。日本中のいろんなところの海に行っていますが、たとえば日本海へ行くと荒々しさはあるけれども、それほど詩情がないんです。沖縄の海もすごく美しいし、明るいけれども、これも詩情がない」
    (「網走とオホーツクの魅力」〔インタビュー記事〕
    1986年 網走市勢要覧『オホーツク物語』)

    「オホーツク老人」は、知床の番屋で孤独に生きる一人の老人の物語です。厳しい自然にさらされながらも強く生きるその姿は、オホーツクそのもの。彼の語るもの悲しさや詩情が、この作品には溢れています。当時ブームが起こったのも、その風景に日本人の心に訴えかけるものがあったからでしょう。

    「大ていの観光地は山なら山、海なら海と一種類の美しさに限られているが、網走が持つ自然美には牧歌調の平原あり眩くような断崖あり原生林あり、山岳あり、湖水河川あり、大洋ありと、実に多種多様の風光が訪れる人を喜ばせる〔中略〕こんなところは日本中さがしてもめったにない」
    (「美しき網走」 昭和30年代発行網走市観光パンフレットへの寄稿より)

    また、取材や映画撮影の協力、地元との交流の中で、人の純真さ・強さといったものにも大きな魅力を感じていた戸川幸夫は、網走に多くの友人を得て、後々も長く交流していたといいます。

    「(知床取材の)おかげで、網走にはたくさんの友人ができました。私は行った先で会った人は一度つきあったらいつまでもつきあうほうなんです。それに、網走が好きだし、オホーツクが好きだし、知床が好きだからということで、それから、ちょいちょい来るようになりました」
    (「美しき網走」 昭和30年代発行網走市観光パンフレットへの寄稿より)

    様々な要素をあわせもつ自然景観と、そこに流れる詩情。そして人の温かさ‥それが網走の魅力なのです。

  • 網走の文学碑

    金田一京助歌碑(モヨロ貝塚)

    所在地・北ニ東一 昭和31年9月10日建立
    建立者・米村喜男衛 揮毫・金田一京助

    おほつくのもよろのうらの夕凪に いにしよ志のび君とたつかな

    昭和二十二年から三ヶ年にわたり文部省の意を受けて東大教授駒井博士を主班とする各大学其の他の学徒三十余名の参加を得てモヨロ貝塚学術調査が行われた際、特別指導者として原田叔人博士とともに御来網の際よまれて書かれたものである。

    オホーツク文化最大の遺跡・モヨロ貝塚発掘調査の指導に何度か来網していた言語学者金田一京助博士の歌碑。
    碑の歌は発掘現場で更紙にさらさらと書かれ、米村氏に渡されたもの。これはいい歌ですね、と米村氏が言ったところ、帰京後に毛筆で揮毫したものが送られてきたということです。

    臼田亜浪句碑(天都山)

    所在地・北ニ東一 昭和31年9月10日建立
    建立者・米村喜男衛 揮毫・金田一京助

音楽

有名な網走番外地主題歌をはじめ、数々の歌が歌われています

  • 高倉健『網走番外地』

    高倉健『網走番外地』(作詞:タカオカンベ 採譜・編曲:山田栄一)

    昭和40年テイチクレコードより発売。
    映画『網走番外地』の主題歌。昔より受刑者の間で歌い継がれていた歌が採譜、編曲されたもので、一時は放送禁止歌の指定を受けていましたが、その後レコードは400万枚以上売れたといいます。
    採譜者の山田栄一は東映で劇映画のテーマ音楽を手がけ、特に時代劇の音楽作曲で戦後の一時代を築いた人物。

  • 島倉千代子『流氷音頭』

    島倉千代子『流氷音頭』(作詞:高田千恵 作曲:山口裕功)

    昭和40年発売。作曲は元網走南ヶ丘高校教諭。後年は勝目 有(かちめ あり)というペンネームで活躍、神恵内音頭も作詞作曲されています。

  • 七浦 みさ子、和田弘とマヒナスターズ、小野 由紀子『オホーツクの海』

    七浦 みさ子、和田弘とマヒナスターズ、小野 由紀子『オホーツクの海』(作詞:纓片実 作曲:八州秀章)

    網走に古くから住む人々の間ではよく知られた歌です。また全く別の、同名のタイトルの曲が多くの歌手に歌われているようです。

  • 菅原文太『ニポポ』

    菅原文太『ニポポ』(作詞:剣持貴司 作曲:松木優晴)

    東芝EMIより昭和50年発売。この歌の存在を知っている方は少ないのではないでしょうか。

  • 坂本冬美『呼人駅』

    坂本冬美『呼人駅』(作詞:池田充男 作曲:船村徹)

    平成13年発売のアルバム「冬美ルネッサンス」に収録されています。実際の呼人駅は、無人のとても小さな駅です。

絵画

網走の忘れられない風景をキャンバスに

  • 居串 佳一

    • ユーカラ

    • 北方に生く

    • 氷上漁業

    居串 佳一(いぐし かいち 1911~1955)

    網走市立美術館の開館のきっかけともなった、網走に縁の深い人物。
    北見市に生まれ、7歳の時に網走に移り住む。旧制網走中学校卒業後、24歳で上京。
    戦時中は従軍画家として中国、千島などを訪れた。戦後は疎開のため網走に戻り、全道展創立に携わる。その後40歳で再び上京したが、44歳の若さで生涯を閉じた。彼の作品が市民から寄贈されたことで開館の運びとなった網走市立美術館には、遺族から贈られたデッサンやスケッチを含め、現在477点が収蔵されている。

    作品はオホーツクの風土や人々の生活の様子を感覚的、叙情的にとらえている。
    1936年に描かれた「氷上漁業」は、その代表的な作品である。1941年に描かれ、居串の最高傑作ともいわれる「北方に生く」は厳しい自然の中で生きる北方民族の生活が写実的に描かれているが、実は当時居串は東京都内に住んでおり、作品には北の地への憧れや郷愁が溢れている。
    晩年はアイヌ民族の神話、英雄叙事詩のユーカラをテーマにした一連の作品を手掛けた。

    略歴

    1911年 2月26日、北海道常呂郡野付牛村相之内(現北見市)に四男八女の次男として生まれる
    10歳の頃から海岸風景や海を画用紙に描き始める
    1937年~
    1939年
    頻繁に満州・南京・上海へ旅行をする
    1940年 12月5日、居串宣子と結婚し養子縁組をしたため、画名を「居串佳一」とする
    1942年 航空美術協会会員となる
    1945年 全道美術協会(全道展)が結成され創立会員となる
    1948年 絵画グループ「潮画会」を結成する
    1955年 10月5日、札幌滞在中に脳膜炎となり急逝(44歳)

    受賞

    1931年 第7回道展「ポンモイ風景」「船着場風景」(フローレンス賞)
    1932年 第8回道展「夏のオホーツク海」「火事跡」「カノコユリ、グラジオラス、ポンポンダリア」(フローレンス賞)
    1936年 第6回独立展「群」「海に生く」「氷上漁業」(海南賞)
  • 高橋 道雄

    • とうふつ湖畔

    • 燈台

    • 網つくろい

    • 露地

    • 昼の店先

    高橋道雄スケッチ集『網走百景』(1972・網走文化協会発行)より

    高橋 道雄(たかはし みちお 1908~1979)

    1908(明治41)年に網走市で生まれ、旧制網走中学校を卒業後、洋画家を志し上京する。
    8年間東京で暮らした後、富山県で教職に就きながらも制作活動を続けた。
    戦後は、愛知県の高校で美術教師として勤務し、退職後美術研究のため渡欧。
    その後郷土網走でも個展を開くなどした。

    作品は、身近な情景や建造物をテーマにした風景が多い。
    初期は画面構成に重点を置いたものが目立ったが、研究のため渡欧してから画風も変化を見せ、建造物に人物や動物を配置することで文学性を出している。また象徴的に描かれた人物が作品の情感を高めている。

    略歴

    1908年 3月1日、網走市南5条西2丁目5番地に二男三女の次男として生まれる
    1932年 永田精二・岩船修三・南政善・鈴木榮二郎・米田嘉一と研究グループ「麓棠社」を結成
    1935年 東京美術学校油画家(現芸大)卒業
    1946年 光風会会員となる
    1948年 小川博史・幸島重雄・高木春太郎と研究グループ「四樹会」を結成する
    1960年 日展審査員となる
    1963年 パリを中心として欧州各国へ美術研究のため外遊、翌年帰国
    1968年 美術研究のため再度渡欧
    1979年 9月9日、心筋梗塞のため永眠(71歳)

    受賞

    1937年 第24回光風会展「路上静物(車)」(F氏奨励賞)
    1946年 中部日本美術協会展「午睡」(市長賞)
    1955年 大潮会展「家々」(文部大臣賞奨励賞)
    1978年 仏ル・サロン「店先」(金賞)
  • 松木 路人

    • 母子像

    • キンキと八角

    松木 路人(まつき ろじん 1927~2017)

    現在の日本を代表する洋画家の一人。
    少年期を佐呂間、留辺蘂、女満別などで過ごし、1940年に旧制網走中学校に入学。このとき、現在の網走市立郷土博物館に展示されていた居串佳一の「氷上漁業」に大きな影響を受けた。
    翌年一家で上京、東京美術学校(現在の東京藝術大学)油画科に入学する。
    卒業後は、旧制中学の先輩でもある居串も所属していた独立美術協会を中心に制作活動を続け、芸術選奨文部大臣賞など数々の賞を受賞している。

    あらゆる視点から対象をとらえた作品は、独特の空間を構成している。構築的な画面構成の時代から、白を基調にした時代を経て、近年はモデルや身近な人物を描いた作品が多い。

    略歴

    1927年 留萌管内羽幌町に生まれる
    1940年 東京美術学校(現在の東京藝術大学)油画科入学
    2003年 札幌武蔵野美術学院 名誉学院長
    武蔵野美術大学名誉教授・独立美術協会会員
  • 尾形 義光

    • 川沿いの風景

      川沿いの風景

    • バス通り

      バス通り

    • 釧路街道

      釧路街道

    • 釧路街道

      釧路街道

    尾形 義光(おがた よしみつ 1929~2004)

    網走川や商店街、古びた飲食店街など、網走の町並みを水彩画の繊細なタッチで表現。絵筆を通して網走の町の移り変わりを温かく見つめ、作品には郷愁感があふれている。

    略歴

    1929年 夕張郡大夕張町に生まれる
    1948年 常呂郡置戸村役場に勤務
    のち津別農業協同組合、北海道教育委員会、芦別市教育委員会などに勤務
    1968年 芦別市より網走へ転入
    網走市立中央公民館の館長を務める
    1985年 定年退職間際に独学で絵画を学び始める
    北線美術協会公募展に入選
    同協会会員となる
    2003年 網走の町並みを描き始める
    初の個展を開く
    2004年 1月3日永眠(74歳)

漫画

網走の忘れられない風景をキャンバスに

  • 弘兼 憲史

    「黄昏流星群11―極北に星光る―」 弘兼憲史(2000 小学館)

    東京でマジシャンをしている森尾は、小料理屋のママ・奈々枝から素人ながらすごい手品の技を持つ不思議な男・真崎の話を聞く。真崎は25年前、乱暴されそうになった奈々枝を救うため殺人を犯し、網走刑務所に服役していたという。森尾は彼に興味を持ち、網走へと向かう。

    メインの舞台が網走となっていて、背景に実際の風景が詳細に描かれています。地元の人ならばにやりとしてしまうコマばかり。コミックスを片手に歩いて、同じ場所を見つけてみるのも面白いかもしれません。

    • 最初に登場する網走の街並み
      (向陽ヶ丘より網走港)

    • 森尾が聞き込みをする駐車場
      (南5西2)

    • 森尾が働いていた網走の
      繁華街

写真

レンズを通して見る網走の表情

  • 須藤 勝則

    Sudo Katsunori(網走市在住)

    農村景観の素朴でやわらかい空気や、北国の四季の移り変わりの喜びといった風景を、網走を知り尽くした地元出身ならではの視点から捉える。画面からは風や光、土の臭いが感じられる。
    ロケーションデータベースの撮影を担当し、市内から郊外まで網羅したおよそ6000点の写真を撮影した。

    略歴

    1955年、網走市に生まれる
    網走向陽高校、北海道デザイナー学院フォトグラフィック科卒業
    自分の身体や感性を育んでくれたオホーツクの自然、その季節の綾を体験しながら撮影を楽しむ。
    写真集「氷白花紅」(1990 網走観光振興公社)の撮影、カレンダー「詩季あばしり」(グループ蜃気楼)に写真提供。また自作のポストカード「オホーツク物語」などを制作。

  • 佐藤 臣里

    Sato Shigenori

    暗くて地味に思われがちな厳寒の北の海だが、海中では原色の魚やサンゴ、新緑の海草など、多くの色鮮やかな美しい生き物達が息づいている。また海中から見る流氷は、海面から見える何倍もの大きさで人を圧倒する。厚い氷の下にもぐり、豊穣の海で繰り広げられる命の不思議を、温かな目線で鮮やかに写し出し、知られざるオホーツクの神秘を伝えている。

    略歴

    1962年 大阪にて生まれる
    高校生時代から冬の北海道に魅せられ毎年旅に出る
    1983年 初めて自分の一眼レフを持ち北海道の自然をテーマに撮り始める
    1986年 大阪市内のスタジオを経て大阪芸術大学写真学科名誉教授、坂本樹勇氏に師事する
    1988年 念願の北海道に移り住む
    雑誌を中心にフリーランスとして活動
    1990年 株式会社北海道アート社にカメラマンとして入社
    2000年 富士フォトサロン札幌で初の写真展を行う
    2001年 (社)日本写真家協会に所属する
    富士フォトサロン札幌で第二回目の写真展を行う
    2002年 富士フォトサロン東京(銀座)で個展を行う

    現在北海道アート社カメラマンとして主に道東方面の観光パンフレットやポスターの撮影を手掛ける
    また、プライベートの作品づくりとして毎月オホーツク海にかよい、北の水中写真に取り組む

  • 大島 秀昭

    Ohshima Hideaki(網走市在住)

    1978年ごろから道東の四季折々の表情に魅せられ、1シーズン3000枚以上の作品を撮り続けている。とりわけ流氷の写真は美しさは、単なる現象の記録ではなく、一芸術作品を追ったかのようである。 日の光が作り出す微妙な陰影を逃さず、かつ大げさでなく表現している。華のある画面の中にもシンプルさが感じられる。

    略歴

    1948年 北海道斜里郡清里町に生まれる
    1969年 網走市役所勤務
    1978年 自然に魅せられ四季折々の風景写真を撮影し始める
    特に冬のオホーツク海の流氷をメインに撮影を続けて現在に至る
    2001年 新宿ニコンサロンBIS21で個展「流氷」オホーツクからのメッセージ を開催
    2002年 東川町文化ギャラリーで個展「流氷」オホーツクからのメッセージ を開催

    日本写真芸術学会正会員、ニッコールクラブ会員
    オホーツクフォトグラファーメンバーズ会員

網走フィルムコミッション

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